- No
- 29
- Date
- 2011.04.17 Sun
3.11のこと
3月11日。東京は、震度5強でした。
私はその時会社にいました。
幸い停電にはならず、インターネットと携帯のワンセグで、東北の太平洋沖が震源と知りました。
すぐに実家に連絡し、何とか無事が確認できましたが、その後携帯回線が不通になりました。
大津波警報のことも知りました。
ほどなくして巨大な津波が町を襲う映像を見ました。
会社のみんなと、ものも言えず小さな携帯の画面を見つめました。
東北のあちこちにいる親戚や友人は無事なのか、夫は大丈夫らしいけど今日どうなるのか、自宅はどうなっているのか、このビルは大丈夫なのか。
何もわからず仕事も手につかず、夜になりました。
都内の電車はすぐに全面運休となりました。
余震が続く中、同じ方面の同僚たちと連れ立って会社を出ました。
延々と隙間もなく連なる人の波に飲まれるようにして、12キロを4時間近く歩いて帰宅しました。
救急車のサイレンやヘリコプターの音がひっきりなしに聞こえました。
自宅では、テレビとキャビネットが倒壊し、床に物が散乱していました。
夫からは、今日は会社に残るというメールが届きました。
テレビが壊れたので、ワンセグをつけたまま、ひとりリビングで一晩過ごしました。
1時間のうちに何度も余震が来ました。
緊急地震速報が鳴るたびに飛び起き、怖くて身構えました。
これが私の3.11でした。
その後、コンビニやスーパーの食料品売り場が急に品薄になりました。
福島第一原子力発電所で爆発がありました。
街灯や駅の照明の半分が消え、街が薄暗くなりました。
東京都の水道水から放射性物質が検出され、ミネラルウォーターが店頭から消えました。
そして、報道される犠牲者の数が毎日増えていきました。
安全で快適な生活の基盤がいかに脆いものか、想像もしなかった形で思い知らされました。
ましてや、大切な人やものを一瞬で失った被災者の方々を思うと、その絶望はどれほどのものかと胸が詰まります。
いつ収束するのかわからない原発事故に、日本全体がもうおしまいなんじゃないかと、逃げ場のない不安にかられることもあります。
でも、直接の被害がなかった東京の人間がびくびくしていたって仕方がない。
何に対して、何をすべきなのか、何ができるのかも全然わからないけれど、
負けるもんか
とだけ最近は思っています。
毎日家に帰ると夫に会える安心感。
当たり前だと思っていたことがどれだけ幸せなことか、気がつきました。
東京にいる私達が東北の実家を気遣い、中部地方の夫の実家が東京の私達を気遣い、励ましあいながら、季節は春になりました。
日本は完全に前と同じには戻れないだろうけれど、それでも日本の力を信じたい。
大好きな東北を何らかの形で支えたい。
今も答えはわからないけれど、そう思っています。
犠牲になられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
私はその時会社にいました。
幸い停電にはならず、インターネットと携帯のワンセグで、東北の太平洋沖が震源と知りました。
すぐに実家に連絡し、何とか無事が確認できましたが、その後携帯回線が不通になりました。
大津波警報のことも知りました。
ほどなくして巨大な津波が町を襲う映像を見ました。
会社のみんなと、ものも言えず小さな携帯の画面を見つめました。
東北のあちこちにいる親戚や友人は無事なのか、夫は大丈夫らしいけど今日どうなるのか、自宅はどうなっているのか、このビルは大丈夫なのか。
何もわからず仕事も手につかず、夜になりました。
都内の電車はすぐに全面運休となりました。
余震が続く中、同じ方面の同僚たちと連れ立って会社を出ました。
延々と隙間もなく連なる人の波に飲まれるようにして、12キロを4時間近く歩いて帰宅しました。
救急車のサイレンやヘリコプターの音がひっきりなしに聞こえました。
自宅では、テレビとキャビネットが倒壊し、床に物が散乱していました。
夫からは、今日は会社に残るというメールが届きました。
テレビが壊れたので、ワンセグをつけたまま、ひとりリビングで一晩過ごしました。
1時間のうちに何度も余震が来ました。
緊急地震速報が鳴るたびに飛び起き、怖くて身構えました。
これが私の3.11でした。
その後、コンビニやスーパーの食料品売り場が急に品薄になりました。
福島第一原子力発電所で爆発がありました。
街灯や駅の照明の半分が消え、街が薄暗くなりました。
東京都の水道水から放射性物質が検出され、ミネラルウォーターが店頭から消えました。
そして、報道される犠牲者の数が毎日増えていきました。
安全で快適な生活の基盤がいかに脆いものか、想像もしなかった形で思い知らされました。
ましてや、大切な人やものを一瞬で失った被災者の方々を思うと、その絶望はどれほどのものかと胸が詰まります。
いつ収束するのかわからない原発事故に、日本全体がもうおしまいなんじゃないかと、逃げ場のない不安にかられることもあります。
でも、直接の被害がなかった東京の人間がびくびくしていたって仕方がない。
何に対して、何をすべきなのか、何ができるのかも全然わからないけれど、
負けるもんか
とだけ最近は思っています。
毎日家に帰ると夫に会える安心感。
当たり前だと思っていたことがどれだけ幸せなことか、気がつきました。
東京にいる私達が東北の実家を気遣い、中部地方の夫の実家が東京の私達を気遣い、励ましあいながら、季節は春になりました。
日本は完全に前と同じには戻れないだろうけれど、それでも日本の力を信じたい。
大好きな東北を何らかの形で支えたい。
今も答えはわからないけれど、そう思っています。
犠牲になられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
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