- No
- 359
- Date
- 2018.09.28 Fri
山形散歩
山形へ行くといつも、滞在中に何度かはお蕎麦を食べます。
鶏肉を使った冷たい「肉そば」や噛みごたえ十分の大盛り「板そば」など山形ならではのものもありますが、ごく普通の町の蕎麦屋さんも多く、おいしいお蕎麦には事欠きません。

芋煮会で有名な馬見ヶ崎川のほど近く、古民家で営業しているのが「そば琳」です。
妹が以前行っておいしかったとのことで、両親含め6人でお昼を食べに行きました。
店の裏手に車を停め、建物の横から玄関に回ると、お昼の営業は15時までで蕎麦がなくなり次第終了とのこと。
遅めに行ったのでちょっと焦りましたが、ぎりぎり6人半前残っているということで、私たちが最後のお客になりました。

もり蕎麦はお漬物つきのシンプルなセット。
食べやすく香りのよいお蕎麦でした。
暖かい日だったので、父と夫はまずビールで乾杯。
レトロ感あふれる店内の一角には山形の観光情報や雑誌などがまとめて置いてあり、オーナーの山形愛を感じます。

母と妹はにしん蕎麦。
生まれてこの方ずっと食べ盛りの姪は当然のように1.5人前盛りの板蕎麦を注文し、6人で6.5人前を完食したのでした。

デザートに頼んだきな粉と黒蜜の蕎麦プリン。
ごく柔らかいそばがきのような感じで、これもとてもおいしかったです。

お会計を済ませて店を出ると、出入口のドアには売り切れの紙が貼られていました。
古民家ならではの雰囲気もよく、人気があるというのも頷ける素敵な蕎麦屋さんでした。

所変わって、こちらも山形市内にある霞城公園。
久しぶりに行ってみるかと父が連れていってくれました。
最上家の居城である山形城(通称霞ヶ城)があった場所で、ここは二の丸東大手門。
現在は復元工事中ですが、地元の人たちの生活道路にもなっているようで、自転車が気軽に通り抜けていくのを夫が面白そうに眺めていました。
都会から来たマダム達を引き連れたボランティアのツアーガイドとも遭遇し、山形訛りの説明にこっそり耳を傾けてみたり。

4月下旬になるとお堀端や公園内には桜が咲き乱れ、絶好のお花見スポットになります。
今の季節は夏の名残の木々の緑が鮮やかで、改めて見るとなかなか清々しい景色です。

中に入ると、最上義光像のある広場。
母も霞城公園で大々的な復元工事や再整備が行われていることを知らなかったようで、「こんなに立派な門作って、中もこんなに綺麗になってるなんてすごい!」としきりに感激していました。

最上義光騎馬像。
父が言うには、後ろ脚で立つ騎馬の銅像はバランスを取るのが難しく、この大きさは国内でも珍しいのだそうです。

復元工事中の二の丸ですが、大手門の一部は資料館として無料開放されていて、山形城下の沿革や藩主の変遷など、思いのほか充実した展示を見ることができました。

向こうに見える照明塔は以前野球場があったところ。
スポーツ施設は順次他の場所に移され、本丸跡の発掘や公園の整備のため更地になっています。

好天に恵まれ暑いくらいの日差しでしたが、街路樹の木陰は涼しく、感激しすぎてちょっと疲れた母がひと休み。

二の丸だけでなく、本丸の門やお堀も順次復元されているようです。
一文字門と呼ばれるこの門の内側は、まだ草の生い茂るかつての面影そのままでした。
本丸には当初から天守閣はなかったようですが、幕末には既に更地になっており、残存する資料が少なく全貌が不明なため、復元にはまだまだ時間がかかりそうです。
古い時代の写真の提供を市民に呼びかける看板もありました。

遊歩道の先に見えてくる瀟洒な西洋建築は、山形市郷土館。
市内中心部にある済生館病院の旧本館を移築したもので、中は往時の診察室や医療器具や資料などが保存されています。

庭にはコスモスや千日紅など色とりどりの花が咲いていました。

外観と一部の部屋以外は写真撮影は禁止です。
円形の外廊下に囲まれた中庭では、母が「昔のままだ、懐かしい!」とまた感激モード。
もっと遥か昔に移築されたと思っていたので、母がこの本館の現役時代を知っていたのは意外でした。
山形の医療の発展に尽くした外国人医師や、戦中戦後の労苦、雪国の暮らしの大変さ、医療技術の進歩など見所は盛りだくさん。
なかなか興味深く、夫とじっくり見て回っていたら、両親はとっくに出口にたどり着いてソファに座っていました。
市内観光名所のスタンプラリーの台紙があったので、夫がそこにあったスタンプをポンと押しましたが、よく見たらそこは全然違う施設の枠(笑)

霞城公園の北東の方角に、お寺が密集する寺町と呼ばれる区域があります。
みんなが寺町と呼ぶので正式名称だとばかり思っていたのですが、現在の地図上にはない旧町名だそう。
その寺町にある専称寺は、最上義光の次女駒姫の菩提寺です。

父によると、多分この辺りで一番大きなお寺とのこと。
境内には空を覆うような銀杏の大樹があり、悠久の時の流れを感じます。

駒姫のお墓は近年建てられたばかりでまだ新しいものですが、これもいずれは史跡になるんだよと手を合わせました。
どしりとした本堂に映える緑、紅葉の季節が楽しみです。

そして、山形最後の昼食はやっぱりお蕎麦です。
ごちそうさま。
夏は猛暑で冬は極寒という厳しい気候の山形で、貴重な初秋の爽やかさを満喫した三連休でした。
国指定史跡山形城跡 霞城公園
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/sub14/koen/ecb45kajou.html
鶏肉を使った冷たい「肉そば」や噛みごたえ十分の大盛り「板そば」など山形ならではのものもありますが、ごく普通の町の蕎麦屋さんも多く、おいしいお蕎麦には事欠きません。

芋煮会で有名な馬見ヶ崎川のほど近く、古民家で営業しているのが「そば琳」です。
妹が以前行っておいしかったとのことで、両親含め6人でお昼を食べに行きました。
店の裏手に車を停め、建物の横から玄関に回ると、お昼の営業は15時までで蕎麦がなくなり次第終了とのこと。
遅めに行ったのでちょっと焦りましたが、ぎりぎり6人半前残っているということで、私たちが最後のお客になりました。

もり蕎麦はお漬物つきのシンプルなセット。
食べやすく香りのよいお蕎麦でした。
暖かい日だったので、父と夫はまずビールで乾杯。
レトロ感あふれる店内の一角には山形の観光情報や雑誌などがまとめて置いてあり、オーナーの山形愛を感じます。

母と妹はにしん蕎麦。
生まれてこの方ずっと食べ盛りの姪は当然のように1.5人前盛りの板蕎麦を注文し、6人で6.5人前を完食したのでした。

デザートに頼んだきな粉と黒蜜の蕎麦プリン。
ごく柔らかいそばがきのような感じで、これもとてもおいしかったです。

お会計を済ませて店を出ると、出入口のドアには売り切れの紙が貼られていました。
古民家ならではの雰囲気もよく、人気があるというのも頷ける素敵な蕎麦屋さんでした。

所変わって、こちらも山形市内にある霞城公園。
久しぶりに行ってみるかと父が連れていってくれました。
最上家の居城である山形城(通称霞ヶ城)があった場所で、ここは二の丸東大手門。
現在は復元工事中ですが、地元の人たちの生活道路にもなっているようで、自転車が気軽に通り抜けていくのを夫が面白そうに眺めていました。
都会から来たマダム達を引き連れたボランティアのツアーガイドとも遭遇し、山形訛りの説明にこっそり耳を傾けてみたり。

4月下旬になるとお堀端や公園内には桜が咲き乱れ、絶好のお花見スポットになります。
今の季節は夏の名残の木々の緑が鮮やかで、改めて見るとなかなか清々しい景色です。

中に入ると、最上義光像のある広場。
母も霞城公園で大々的な復元工事や再整備が行われていることを知らなかったようで、「こんなに立派な門作って、中もこんなに綺麗になってるなんてすごい!」としきりに感激していました。

最上義光騎馬像。
父が言うには、後ろ脚で立つ騎馬の銅像はバランスを取るのが難しく、この大きさは国内でも珍しいのだそうです。

復元工事中の二の丸ですが、大手門の一部は資料館として無料開放されていて、山形城下の沿革や藩主の変遷など、思いのほか充実した展示を見ることができました。

向こうに見える照明塔は以前野球場があったところ。
スポーツ施設は順次他の場所に移され、本丸跡の発掘や公園の整備のため更地になっています。

好天に恵まれ暑いくらいの日差しでしたが、街路樹の木陰は涼しく、感激しすぎてちょっと疲れた母がひと休み。

二の丸だけでなく、本丸の門やお堀も順次復元されているようです。
一文字門と呼ばれるこの門の内側は、まだ草の生い茂るかつての面影そのままでした。
本丸には当初から天守閣はなかったようですが、幕末には既に更地になっており、残存する資料が少なく全貌が不明なため、復元にはまだまだ時間がかかりそうです。
古い時代の写真の提供を市民に呼びかける看板もありました。

遊歩道の先に見えてくる瀟洒な西洋建築は、山形市郷土館。
市内中心部にある済生館病院の旧本館を移築したもので、中は往時の診察室や医療器具や資料などが保存されています。

庭にはコスモスや千日紅など色とりどりの花が咲いていました。

外観と一部の部屋以外は写真撮影は禁止です。
円形の外廊下に囲まれた中庭では、母が「昔のままだ、懐かしい!」とまた感激モード。
もっと遥か昔に移築されたと思っていたので、母がこの本館の現役時代を知っていたのは意外でした。
山形の医療の発展に尽くした外国人医師や、戦中戦後の労苦、雪国の暮らしの大変さ、医療技術の進歩など見所は盛りだくさん。
なかなか興味深く、夫とじっくり見て回っていたら、両親はとっくに出口にたどり着いてソファに座っていました。
市内観光名所のスタンプラリーの台紙があったので、夫がそこにあったスタンプをポンと押しましたが、よく見たらそこは全然違う施設の枠(笑)

霞城公園の北東の方角に、お寺が密集する寺町と呼ばれる区域があります。
みんなが寺町と呼ぶので正式名称だとばかり思っていたのですが、現在の地図上にはない旧町名だそう。
その寺町にある専称寺は、最上義光の次女駒姫の菩提寺です。

父によると、多分この辺りで一番大きなお寺とのこと。
境内には空を覆うような銀杏の大樹があり、悠久の時の流れを感じます。

駒姫のお墓は近年建てられたばかりでまだ新しいものですが、これもいずれは史跡になるんだよと手を合わせました。
どしりとした本堂に映える緑、紅葉の季節が楽しみです。

そして、山形最後の昼食はやっぱりお蕎麦です。
ごちそうさま。
夏は猛暑で冬は極寒という厳しい気候の山形で、貴重な初秋の爽やかさを満喫した三連休でした。
国指定史跡山形城跡 霞城公園
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/sub14/koen/ecb45kajou.html
- category:2018.09 山形
- No
- 358
- Date
- 2018.09.26 Wed
遊佐町ドライブ
三連休に実家の山形に帰省しました。
夫と二人で帰るとドライブ好きの父が毎度あれこれと行き先を練り、どこかしらに連れ出してくれるのですが、今回はお隣の秋田県に行きたいとのこと。
ちょっと遠くない?という母と私の不服を受け、じゃあその手前までということで、庄内地方に向けて出発となりました。

休憩に寄った道の駅で母が玉こんにゃくを購入。
山形ではどこでも売っているファストフード的なもので、母は売り場を見つけると条件反射的に買い、いつも問答無用で1本手渡されます(笑)
私も好きなのでいいのですが。

そんなこんなでまず到着したのは、県北の遊佐町にある旧青山本邸。
北海道のニシン漁で財を成し、漁業王と言われた青山留吉が故郷に築いた豪邸です。

入館料を支払い、母屋に入ってみました。
廊下の窓から見える中庭には、当時の青山家の財力を思わせる巨石がどっしりと据えられています。
少し歪みのある昔のガラスもいい雰囲気。

離れのお座敷では、床の間の掛け軸に留吉さんの肖像画が描かれています。
天井には蠅よけとして白い折り鶴がたくさん取りつけられていて、ちょっと珍しい眺めでした。

各部屋に、趣のある古い道具が置いてあります。
途中の部屋では青山家の興隆に関する説明ビデオも用意されていました。

数多くの炊事用具が並ぶ台所では、斜めに角度がついた洗い場のシンクが印象的です。

きっと何人もの使用人たちが忙しく立ち働いていたのでしょうね。

ここは2013年に公開された映画「おしん」撮影のロケにも使われたそうです。
建物も内装もよく保存されていて頭が下がります。

敷地内には別棟の展示館があり、資料などが展示されていました。
若き青山留吉が単身北海道へ漕ぎ出した船も。
住宅の作りや漁業の歴史など、庄内の文化にも触れられる興味深い邸宅でした。

稲刈りを待つ黄金色の庄内平野です。
大好きな秋の風景。

しばし車を走らせて、同じ遊佐町の永泉寺(ようせんじ)へ。
仁王門に至る参道の石段は苔むして丸みを帯び、とても幽玄な雰囲気です。

横の急な坂を上ると駐車場があり、そこから境内に入れるようになっていました。
朱色の仁王門の両側には迫力ある表情の仁王像が一対。
天井の格子には草木や人物などの色鮮やかな絵が施されていて、しばし見とれました。

山の木々に包まれるような境内に、大勢でお経を読む厳かな声が本堂から聞こえてきます。

自然豊かな美しい庭園。

他に参拝客はおらず、とても静かです。

裏手の山の斜面に檀家さんの墓地があり、穏やかなお顔のお地蔵さまが鎮座していました。

そこを抜けて更に山を登っていくと、県指定有形文化財の石造九重層塔があります。
最上義光の家臣であった志村光安公の墳墓で、300年以上も風雪にさらされてここに立っているとのこと。

周りを今にも崩れそうな岩壁に囲まれて、山道も自然のままに近く、お墓参りも一筋縄ではいかなそう。
が、それ故かどことなく荘厳な空気感を醸し出す境内です。

帰り際、お地蔵さまに手を合わせて、騒がしくしてしまったお詫びをしました。
観光地としてはそれほど有名ではないようですが、山と一体化した自然と深い歴史をまとい、格式が感じられる古刹です。
ただ、ふと気づけば6箇所も蚊に刺されており、やっぱり一筋縄ではいかないなと思いました(笑)

永泉寺のほど近くにある、牛渡川。
出羽富士とも呼ばれる鳥海山の伏流水が流れ、初夏には水中で白い花を咲かせる「梅花藻」が見頃になります。
今の季節は花は咲いていませんでしたが、澄んだ水が穏やかに流れていました。

その奥にある、不思議なほど青い色をした池。

こちらも池の底から湧き出す湧水で満たされ、透明度が高く、水中の倒木もなかなか朽ち果てません。
信仰の対象として「丸池様」と呼ばれており、魚を捕るのも厳禁です。

手つかずの原生林に守られたこの一帯は、天然記念物として保護されています。
ただ観光客は割と多く、近くにある「箕輪鮭孵化場」の駐車場は常に満車でした。

もう一箇所行くぞという父の声に、長距離ドライブ嫌いの母がブーイング。
それをものともせず、父の運転する車は県境を越えて、にかほ市象潟(きさかた)の蚶満寺(かんまんじ)へ。
結局当初の目論見通り、秋田県に到達したわけです(笑)
割と強引に連れてきた割には、父は駐車場に私たち3人を置いてガソリンを入れに行ってしまうという謎行動。
娘の私が言うのも何ですが、本当にお互いワガママで面白い夫婦です。
それをうちの夫がニヤニヤしながら観察するといういつものパターン(笑)

合併してにかほ市の一部になりましたが、象潟は松尾芭蕉が立ち寄った場所で、かつては九十九島と呼ばれる島々の連なる景勝地だったとのこと。
1804年の大地震で隆起し、一夜にして一帯が陸地になったそうです。
蚶満寺の境内には海沿いだった頃の船着き場や船繋ぎ石の他、樹齢千年を超えるタブの木、木登り地蔵、北条時頼が植樹したつつじなどいくつもの見所がありました。

何だかものすごく出世しそうな、出世稲荷堂という名前のお稲荷さま。
私はゆるふわ会社員のままでいいので、夫が出世するように手を合わせてきました(笑)

稲荷堂の裏手には、芭蕉の句碑が建っています。
「象潟や雨に西施がねぶの花」とは芭蕉がここで詠んだ句です。

お屋敷のお勝手口に集まる、ご飯待ちと思しき猫さんたち。
お寺住みのせいか、みんな落ち着きがあって動じません(笑)

山門をくぐって境内を出ると、隣接の公園に続く参道が伸びています。
駐車場からすぐ山門の内側に入ったので、順路が逆になってしまいました。
歩きながら眺める田畑の中に、かつては島だった小山が点在しており、九十九島の名残を見ることができます。

公園に立つ西施像。
芭蕉が句に詠んだ西施とは春秋時代の中国の女性で、祖国である呉のために敵国の越に嫁いだ、いわゆる傾城の美女です。
ガソリンを入れて戻ってきた父の説明もどこ吹く風で、母はそこら中に落ちている松ぼっくり拾いに夢中でしたが(笑)
芭蕉は、松島は笑っているようだが象潟は憂えているようだと評したそうで、その物悲しいような美しさが西施の面影を連想させたのでしょうね。
父の思惑通りに秋田まで足を伸ばしたドライブでしたが、古き良きものに触れ歴史や自然を感じるいい機会になりました。
国指定重要文化財 旧青山本邸(遊佐町教育委員会教育課文化係)
http://www.town.yuza.yamagata.jp/ou/kyoiku/bunka/8201.html
曹洞宗 永泉寺
https://www.yousenji.com/
夫と二人で帰るとドライブ好きの父が毎度あれこれと行き先を練り、どこかしらに連れ出してくれるのですが、今回はお隣の秋田県に行きたいとのこと。
ちょっと遠くない?という母と私の不服を受け、じゃあその手前までということで、庄内地方に向けて出発となりました。

休憩に寄った道の駅で母が玉こんにゃくを購入。
山形ではどこでも売っているファストフード的なもので、母は売り場を見つけると条件反射的に買い、いつも問答無用で1本手渡されます(笑)
私も好きなのでいいのですが。

そんなこんなでまず到着したのは、県北の遊佐町にある旧青山本邸。
北海道のニシン漁で財を成し、漁業王と言われた青山留吉が故郷に築いた豪邸です。

入館料を支払い、母屋に入ってみました。
廊下の窓から見える中庭には、当時の青山家の財力を思わせる巨石がどっしりと据えられています。
少し歪みのある昔のガラスもいい雰囲気。

離れのお座敷では、床の間の掛け軸に留吉さんの肖像画が描かれています。
天井には蠅よけとして白い折り鶴がたくさん取りつけられていて、ちょっと珍しい眺めでした。

各部屋に、趣のある古い道具が置いてあります。
途中の部屋では青山家の興隆に関する説明ビデオも用意されていました。

数多くの炊事用具が並ぶ台所では、斜めに角度がついた洗い場のシンクが印象的です。

きっと何人もの使用人たちが忙しく立ち働いていたのでしょうね。

ここは2013年に公開された映画「おしん」撮影のロケにも使われたそうです。
建物も内装もよく保存されていて頭が下がります。

敷地内には別棟の展示館があり、資料などが展示されていました。
若き青山留吉が単身北海道へ漕ぎ出した船も。
住宅の作りや漁業の歴史など、庄内の文化にも触れられる興味深い邸宅でした。

稲刈りを待つ黄金色の庄内平野です。
大好きな秋の風景。

しばし車を走らせて、同じ遊佐町の永泉寺(ようせんじ)へ。
仁王門に至る参道の石段は苔むして丸みを帯び、とても幽玄な雰囲気です。

横の急な坂を上ると駐車場があり、そこから境内に入れるようになっていました。
朱色の仁王門の両側には迫力ある表情の仁王像が一対。
天井の格子には草木や人物などの色鮮やかな絵が施されていて、しばし見とれました。

山の木々に包まれるような境内に、大勢でお経を読む厳かな声が本堂から聞こえてきます。

自然豊かな美しい庭園。

他に参拝客はおらず、とても静かです。

裏手の山の斜面に檀家さんの墓地があり、穏やかなお顔のお地蔵さまが鎮座していました。

そこを抜けて更に山を登っていくと、県指定有形文化財の石造九重層塔があります。
最上義光の家臣であった志村光安公の墳墓で、300年以上も風雪にさらされてここに立っているとのこと。

周りを今にも崩れそうな岩壁に囲まれて、山道も自然のままに近く、お墓参りも一筋縄ではいかなそう。
が、それ故かどことなく荘厳な空気感を醸し出す境内です。

帰り際、お地蔵さまに手を合わせて、騒がしくしてしまったお詫びをしました。
観光地としてはそれほど有名ではないようですが、山と一体化した自然と深い歴史をまとい、格式が感じられる古刹です。
ただ、ふと気づけば6箇所も蚊に刺されており、やっぱり一筋縄ではいかないなと思いました(笑)

永泉寺のほど近くにある、牛渡川。
出羽富士とも呼ばれる鳥海山の伏流水が流れ、初夏には水中で白い花を咲かせる「梅花藻」が見頃になります。
今の季節は花は咲いていませんでしたが、澄んだ水が穏やかに流れていました。

その奥にある、不思議なほど青い色をした池。

こちらも池の底から湧き出す湧水で満たされ、透明度が高く、水中の倒木もなかなか朽ち果てません。
信仰の対象として「丸池様」と呼ばれており、魚を捕るのも厳禁です。

手つかずの原生林に守られたこの一帯は、天然記念物として保護されています。
ただ観光客は割と多く、近くにある「箕輪鮭孵化場」の駐車場は常に満車でした。

もう一箇所行くぞという父の声に、長距離ドライブ嫌いの母がブーイング。
それをものともせず、父の運転する車は県境を越えて、にかほ市象潟(きさかた)の蚶満寺(かんまんじ)へ。
結局当初の目論見通り、秋田県に到達したわけです(笑)
割と強引に連れてきた割には、父は駐車場に私たち3人を置いてガソリンを入れに行ってしまうという謎行動。
娘の私が言うのも何ですが、本当にお互いワガママで面白い夫婦です。
それをうちの夫がニヤニヤしながら観察するといういつものパターン(笑)

合併してにかほ市の一部になりましたが、象潟は松尾芭蕉が立ち寄った場所で、かつては九十九島と呼ばれる島々の連なる景勝地だったとのこと。
1804年の大地震で隆起し、一夜にして一帯が陸地になったそうです。
蚶満寺の境内には海沿いだった頃の船着き場や船繋ぎ石の他、樹齢千年を超えるタブの木、木登り地蔵、北条時頼が植樹したつつじなどいくつもの見所がありました。

何だかものすごく出世しそうな、出世稲荷堂という名前のお稲荷さま。
私はゆるふわ会社員のままでいいので、夫が出世するように手を合わせてきました(笑)

稲荷堂の裏手には、芭蕉の句碑が建っています。
「象潟や雨に西施がねぶの花」とは芭蕉がここで詠んだ句です。

お屋敷のお勝手口に集まる、ご飯待ちと思しき猫さんたち。
お寺住みのせいか、みんな落ち着きがあって動じません(笑)

山門をくぐって境内を出ると、隣接の公園に続く参道が伸びています。
駐車場からすぐ山門の内側に入ったので、順路が逆になってしまいました。
歩きながら眺める田畑の中に、かつては島だった小山が点在しており、九十九島の名残を見ることができます。

公園に立つ西施像。
芭蕉が句に詠んだ西施とは春秋時代の中国の女性で、祖国である呉のために敵国の越に嫁いだ、いわゆる傾城の美女です。
ガソリンを入れて戻ってきた父の説明もどこ吹く風で、母はそこら中に落ちている松ぼっくり拾いに夢中でしたが(笑)
芭蕉は、松島は笑っているようだが象潟は憂えているようだと評したそうで、その物悲しいような美しさが西施の面影を連想させたのでしょうね。
父の思惑通りに秋田まで足を伸ばしたドライブでしたが、古き良きものに触れ歴史や自然を感じるいい機会になりました。
国指定重要文化財 旧青山本邸(遊佐町教育委員会教育課文化係)
http://www.town.yuza.yamagata.jp/ou/kyoiku/bunka/8201.html
曹洞宗 永泉寺
https://www.yousenji.com/
- category:2018.09 山形